2015年4月26日日曜日

保守主義に哲学なし

1989年にベルリンの壁が崩壊し、社会主義の思想的誤りが明らかになったにもかかわらず、保守論壇は迷走している。経済問題ひとつとっても、郵政民営化、環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)、消費増税などの是非をめぐって、同じ保守派知識人の間で意見が対立し、人々に一貫した見識を提示できないでいる。なぜこうなるのか。答えは簡単、そもそも保守主義には首尾一貫した原理原則がないからだ。

だから個々の問題に対する判断は場あたり的となり、体系的な意見を示せない。「親米保守」や「反米保守」を名のる向きもあるが、米国の方針は政権や世論次第で移り変わるのだから、これらは単なる保守主義に輪をかけて定見のない立場である。

ウィキペディアによると、保守主義とは「古くからの習慣・制度・考え方などを尊重し、急激な改革に反対すること」とある。しかしたとえば、人類の起源と同じくらい古いといわれる奴隷制を「尊重」し、その復活を唱える保守主義者はいない。同様に、士農工商の身分制度に戻れと主張する保守主義者もいない。

保守主義者はこう反論するだろう。改革を一切認めないわけではない、「急激な改革」に反対するだけなのだ、と。たとえば評論家の西部邁は『思想の英雄たち』(ハルキ文庫)で「保守主義は、変化をまったく拒絶するというのではまったく〔「まったく」の重複は原文のママ〕ないが、グラデュアリズムつまり漸進主義の態度をもって変化に対応しようとする」と書く。しかしもし漸進主義が保守主義者の真骨頂であるなら、奴隷制の廃止や士農工商の廃絶といった「急激な改革」を唯々諾々と追認することは許されないはずだ。

英国の歴史家、アクトン卿ことジョン・アクトンは保守主義の代表的知識人のように呼ばれるが、実際はラディカルな自由主義者だった。アクトンは現状に保守的に固執するホイッグ主義とラディカルな自由主義を明確に区別し、こう述べている。「前者〔ホイッグ主義〕は実際的であり、段階的であり、妥協の用意がある。後者〔自由主義〕は原理を哲学的に作り出す。前者は哲学を求める政策であり、後者は政策を求める哲学である」(ロスバード『自由の倫理学』306頁)。つまり保守主義は政治的妥協をよしとする態度にすぎず、裏づけとなる哲学がないのだ。


西部邁によれば、保守主義がよりどころとする伝統は、単なる因襲とは異なり、「新しいものの適否を見分ける仕方」「権威や権力における過大と過小のあいだで中庸を保つ仕方」「競争と保護のあいだで平衡を持す仕方」などを意味するという。アクトンの言葉を念頭に眺めればわかるが、これらはすべて、足して二で割る政治的妥協をさも高尚な知的営みであるかのように言い立てているにすぎない。哲学なき「思想」が迷走するのは当然である。
(2012年5月、某ミニコミ誌に寄稿)

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