2015年10月17日土曜日

橋爪大三郎・佐藤優『あぶない一神教』


杜撰な資本主義論


もし資本主義を、国家(政府)のコントロールの効かない自由放任経済と定義するならば、国家と経済が一体化した経済体制を資本主義と呼ぶのはおかしい。ところが日本の言論人の間では、このおかしな議論をよく目にする。

佐藤優(元外務省主任分析官)は、橋爪大三郎(社会学者)との対談本である本書で、そのおかしな議論を展開する。

佐藤は「資本主義というものは、本質的に放っておけば暴走します」と述べる。すなわち資本主義の本質は、国家のコントロールを振りほどいて勝手に「暴走」するところにあるというわけである。

ところがその直後、佐藤は資本主義が「暴走」した例として、経済学者・中谷巌の体験談を持ち出す。

中谷は新自由主義(自由放任主義)の旗振り役として知られていたが、あるとき、資本主義の総本山であるはずの米国では国家や政治エリートと結びついた超富裕層がインサイダー取引をやっていて、健全な市場はほとんど残されていないことに気づいた。きわめて不公平な状況で、嫌気がさしたと中谷は話したという。

このエピソードを受け、佐藤は「暴走する資本主義をどうコントロールするのか。そもそもコントロールは可能なのか。そこが何よりも難しい」と述べる。

しかし、これはおかしい。もし資本主義が国家の手を離れた自由放任経済だとすれば、超富裕層が国家と「結びついた」経済体制を資本主義と呼ぶのは矛盾である。

経済が国家と癒着したそのような経済体制は、ルイジ・ジンガレスの言葉を借りれば「クローニー(縁故)資本主義」であり、トーマス・ソーウェルにならって「ファシズム」と呼んでもよい。いずれにせよ、自由放任的な資本主義とはまったく異質なものである。

まったく異質なものを同じ資本主義という言葉で表すような杜撰な議論から、なんであれ有益な知見が得られるとは思えない。

佐藤はこの後、「国家と資本主義は絶対に分離しないといけない」という橋爪の主張に同意し、安倍晋三首相が語る「瑞穂の国の資本主義」は経済の国家統制につながる危険性をはらむと述べる。それ自体はよい。

ところが佐藤は同じく今年出版した『世界史の極意』(NHK出版新書)では、国家が市場経済に積極介入するファシズムを再評価し、日本の政策に取り入れよと提言している。本音はやはりこちらなのだろう。

宗教について多少耳新しい知識が得られるとしても、論理的に杜撰で、他著と矛盾したことを平気で述べるような本を、高く評価することはできない。

アマゾンレビューにも投稿)

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