2015-11-07

山岸俊男『「日本人」という、うそ』



「正しいいじめ」はある


いじめに関する議論があらためて盛んになっている。10月27日には文部科学省が、岩手県で中学2年の男子生徒がいじめを苦に自殺したとみられる問題を受け各都道府県の教育委員会が2014年度のいじめについて再調査した結果、当初の集計より約3万件増えたと発表。11月1日には、名古屋市で中学1年の男子生徒がいじめを受けたと書かれた遺書を残し自殺した。

メディアでみられる論調の多くは、いじめはとにかく悪い、なくさなければならないという内容である。しかし、それは正しいだろうか。社会心理学者の著者は、いじめをする心には「マイナスの側面だけでなく、プラスの側面もある」と異を唱える。

著者はまず、不良のグループが暴力で脅して金を持ってこさせるようなケースは、恐喝・暴行というれっきとした犯罪だとして、いじめなどという曖昧な言葉で呼ぶことに反対する。一方、特定のクラスメートを仲間はずれにしたり無視したりする、「しかと」にあたるケースは、被害者の心を傷つけるものではあっても、犯罪とはいえないと述べる。

そのうえで、「しかと」のような「排除」は、恐喝や暴力と違い、「上からの権力に頼らないで、自分たちで自発的に集団や社会を維持していくために欠かすことができない行動原理」とみなしうると指摘する。

著者はこう説明する。大人の集団で、周囲に迷惑をかけても平気な人物がいたら、警察に代表される公権力に頼るか、自分たちで困った人物を排除するように努力するか、どちらかの方法しかない。だがすべてのトラブルの解決を警察に頼り切ることには大きな問題がある。日常の小さな紛争にまで公権力が介入するようになっては、行動の自由もない警察国家・監視国家が生まれる危険性があるし、そのような警察国家を維持するには大変なコストを必要とする。

だから権力に頼ることなく、自分たちで社会の秩序を維持するのが一番いい解決法である。そのためには、暴力によらない排除、つまりいじめによるしかない。

子供の集団でも同じである。もちろん、子供である以上、理不尽ないじめ、度を超したいじめが起こる余地はつねにある。しかしだからといって、上からの監視や教育によっていじめをなくそうとするべきではない。それは教室内をミニ警察国家にし、「自分たちで自発的に社会秩序を作っていくという、人間にとって一番重要な心の働きを取り去ってしまう」からである。

以上の分析を踏まえ、著者は学校教育に対し次のように提言する。まず子供たちに、自発的な秩序を作るための「正しいいじめ」と、恣意的・理不尽な理由による「正しくないいじめ」の区別をつけさせる。そしてもし、「正しくないいじめ」が行なわれているのであれば、それは止めるべきであるし、場合によってはそのようないじめをしている仲間には制裁を加えるべきだということも、教える。「今の日本の学校では、こうしたことがきちんと行なわれていないために……いじめ行動がエスカレートしてしまっている」のである。

2008年に刊行された単行本を改題・文庫化したものだが、偶然にもきわめてタイムリーな再登場となった。いじめ問題を感情的な議論に流されず考えるうえで必読の一冊である。

(アマゾンレビューにも投稿

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