2015年11月22日日曜日

井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』



壮大なダブルスタンダード


リベラルの基本的な価値は自由ではなく正義である、だからリベラルが二重基準(ダブルスタンダード)を使ったら、正義に反し、リベラルの主張そのものが自壊してしまう、と著者は強調する。ところが著者自身、主張の根幹にかかわる部分で二重基準の過ちを犯している。

二重基準とは、著者の言葉を借りれば、「ある状況で、自分の他者に対する要求を正当化するために、ある基準をもってくる。しかし、別の状況で同じ基準を適用すると自分に不利な結論が正当化されてしまう場合、今度は別の基準を援用して、自分に有利な結論をみちびこうとする」こと。一言でいえば、「基準のご都合主義的な使い分け」である。

さて著者は、「強盗の脅迫と、法は、どこが違うのか」という法哲学の基本的な問いについて、「主権者命令説」を紹介する。それによれば、強盗が「金を出せ。出さないと撃つぞ」というのと、国家が「税金を払え。払わないと刑務所にぶちこむぞ」というのは、どこも違わない。違うとすれば、国家というのは、その領域内最大・最強の暴力団であり、山口組やオウム真理教より強い、それだけの違いにすぎない。

だがこの説は間違っているとして、著者は以下のように論じる。第一に、法と強盗の脅迫の区別は「正義要求」の有無にある。強盗の脅迫は、単に金を出せと要求しているだけで、それが正義に合致していることを承認しろなどと要求したりしない。しかし、法は、悪法ですら、みずからが正義にかなっているということの承認を、服従する人たちに求めている。

第二に、法が正義適合性の承認を人々に求める以上は、服従する人たちが、その法の正義適合性を争う権利が、最低限保障されていなければならない。不利益な処分に対する不服申し立ての機会の保障、裁判を受ける権利の保障、政権交代による法改正を可能にする民主政、違憲審査制、市民的不服従や良心的拒否に対する人道的処遇などである。「最後まで全部やれば、いちばん手厚く保護しているんだけど、そこまでいかなくても、不利益処分を受ける者に対して、最低限、不服申し立ての機会を提供する」ことが必要だと著者はいう。

けれども、これらの議論はおかしい。第一に、みずからが正義にかなっているという主張は国家の専売特許であるかのように著者はいうが、そんなことはない。ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、強欲な金貸しの老婆を殺せば借金に苦しむ人々が救われるし、その金を奪えば貧しい自分の将来も開けるという考えによって、殺人を正当化した。

フランス革命やロシア革命で多数の富裕層・中間層が殺されたのは、ラスコーリニコフと同様の正義による。現代の先進国政府は、裕福であることを理由にあからさまな殺人こそやらないものの、同じように、金持ちから金を取り上げて正しい目的に役立てるのは当然という思想に基づき、課税によって富裕層・中間層から財産を収奪している。自分は正義であると主張する点において、ラスコーリニコフと何も変わらない。

第二に、国家が法は正義と主張する以上、それが本当かどうかを争う権利を国民に「最低限」保障しなければならないと著者はいう。そして、裁判を受ける権利や違憲審査制、良心的拒否に対する人道的処遇まではいかなくても、不服申し立ての機会さえあれば、それが「最低限」の保障になるという。

しかし、この「最低限」の線引きはまったく恣意的である。なぜ、不服申し立ての機会だけで十分なのか。いうまでもなく、不服申し立ては認められるとは限らない。

オウム真理教が多くの市民を「ポア」と称して殺害した際、殺す前に不服申し立ての機会さえ与えていればよかったとは、著者はいわないはずである。

そうだとすればなぜ、国家の場合に限って、不服申し立ての機会を与えるだけで、個人の財産のみならず、生命までも自由にすることが許されるのか(著者は、国が戦力を保有する場合には徴兵制でなければならないと主張している。ただし、なぜかこの場合だけは良心的兵役拒否を認めよという。良心的課税拒否は認めなくても許されるのに)。

まとめよう。著者は、「民間」の犯罪者が個人の財産・生命を奪うことは許されないとする一方で、国家には許されると主張する。しかし自分の正義を主張する点で、「民間」の犯罪者と国家に違いはない。だから国家だけを特別扱いするのは二重基準である。また、個人の財産・生命の侵害に際し、「民間」の犯罪者には認められないような甘いハードルをクリアするだけで、国家は免罪される。これも二重基準である。「基準のご都合主義的な使い分け」に他ならない。

著者がここまで躍起になって国家を擁護するのは、たとえ悪法であっても国家が法を強制しなければ、「アナーキー状態になる」という心配からである。正しくいえば無秩序状態のことだろう。だがハイエクが述べるように、そもそも法とは国家の設計からではなく、民間の慣習から生まれ、発展したものである。違反者に対する制裁も民間で行われ、機能していた。国家による法の独占こそ、むしろ社会に無秩序をもたらしている。

本書の根幹をなす主張は、正義の実現のために国家の役割を肯定し、国家を擁護することである。ところがその主張は、著者自身がリベラリズムと正義に反すると非難する二重基準によって成立している。つまり本書そのものが壮大なダブルスタンダードであり、リベラリズムの根本的な矛盾をさらけ出しているのだ。

愛国心を強制してはならないなど評価すべき発言はあるものの、主張の大筋が論理的に破綻した本を高く評価することはできない。

(アマゾンレビューにも投稿

3 件のコメント:

  1. 確か、この著者は公正のため徴兵制を肯定し、良心的兵役拒否は認めるものの代替手段は公正のため徴兵と同じくらいの負担でなければならないとも言っていますが・・・。そもそもリバタリアンの場合、公正かどうかが基準ではなく個人の自由な意思が基準、つまりその意思に基づいて意に背く職業の強制に反対すると思うので議論がかみ合わないなと感じました。

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    1. 失礼、3行目「意思に基づいて」は余計です。

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    2. たしかに井上さんはそう言っていますね。でも「徴兵と同じくらいの負担」ってどうやって量るのでしょう。そもそも兵役の中でも最前線と後方支援では肉体的・精神的負担が違います。

      井上さんの議論は別にリバタリアンから見なくても、論理的に破綻しているのです。

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