2015-11-28

池上彰『世界を変えた10冊の本』



マルクス擁護の誤り


マルクスを擁護する言論人は、ソ連や東欧の社会主義は失敗したけれども、資本主義に対するマルクスの洞察は鋭く、正しかったと主張する。

本書の著者も、マルクスの主著『資本論』を紹介した章で、マルクスをそのように高く評価する。「資本主義の欠陥を知った上で、その問題点を、どう乗り越えればいいのか。資本主義の欠陥を知る上では『資本論』が役立ちます」

しかし、それは本当だろうか。資本主義に対するマルクスの理解は、本当に正しいのだろうか。皮肉なことに、著者自身によるわかりやすい解説を読むだけで、マルクスの考えのおかしさがわかる。

資本主義の基本は取引、つまり物と物を交換することである。マルクスによれば、物と物を交換できるのは、物と物の「交換価値」が同じ場合だという。著者の解説ではこうなっている。「鉛筆一〇本と消しゴム五個とが交換でき、シャープペンシル一本とも交換でき、さらにカップ麺一個と交換できる。A商品x量=B商品y量=C商品z量……というように、さまざまな商品が、それぞれの量に応じて、他の商品とイコールで結ばれていきます。比率が異なることで、いずれも同じ交換価値があるからです」

思わずうなずいてしまうかもしれない。しかし、ちょっと考えてほしい。もし二つの物の価値が同じなら、どうしてわざわざ交換する必要があるのだろうか。

一番わかりやすいのは、二人が同じ商品を持っている場合である。たとえば、あなたと私が同じブランド、同じ味のカップ麺を一個ずつ持っているとしよう。同じ商品だから、マルクスの考えによれば、価値は同じである。しかし、あなたも私も、それをわざわざ交換しようとは思わない。時間と手間ばかりかかって、何の得もないからだ。

人が物を交換するのは、マルクスの主張とは異なり、自分の物と相手の物の価値が同じときではない。自分の物よりも相手の物の価値が高いと思ったときである。

たとえば、私がシャープペンシル一本を持ち、あなたがカップ麺一個を持っているとしよう。私が「シャープペンシルよりもカップ麺の価値が高い」と思い、あなたが「カップ麺よりもシャープペンシルの価値が高い」と思ったとき、二人は持ち物を交換し、互いに満足する。

ここからわかるように、物の価値が高いか低いかは、人の見方によって変わる。ある人はカップ麺の価値はシャープペンシルよりも高いと考え、別の人は低いと考える。言い換えれば、物の価値とは主観的なのだ。物自体に客観的な価値があるという、マルクスの考えは間違っている。

マルクスやそれ以前の時代には、物の価値は客観的なものであるという「客観価値説」が信じられていた。しかし19世紀後半、メンガーらによって「主観価値説」が唱えられ、これが近代経済学の基礎となっている。

物が交換されるのは価値が同じだからというマルクスの誤った主張は、『資本論』の冒頭で述べられ、それ以降の記述の前提となっている。前提が誤っている以上、本全体で述べられた理論が正しいものになるはずはない。

たとえば、上で述べたように、交換は売り手と買い手が互いに得をすると考えたときに行われる。だとすれば、労働サービスを売る労働者が、それを買う資本家から一方的に「搾取」されているという主張は正しくない。

マルクスの考えをわかりやすく解説しただけの著者を批判するのは、酷と感じるかもしれない。しかし著者は自分の意見を述べた部分でマルクスの資本主義理解を高く評価しているから、批判は免れない。

本書は他にも、ミルトン・フリードマンの主張を「強者の論理」と呼んだり、ダーウィンの章で自由放任主義を「弱肉強食」と同一視したり、俗説を無批判に受け入れた記述が目立つ。ジャーナリストとしての著者には好感を持つ部分もあるが、本書については高い評価はできない。

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2015-11-22

井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』



壮大なダブルスタンダード


リベラルの基本的な価値は自由ではなく正義である、だからリベラルが二重基準(ダブルスタンダード)を使ったら、正義に反し、リベラルの主張そのものが自壊してしまう、と著者は強調する。ところが著者自身、主張の根幹にかかわる部分で二重基準の過ちを犯している。

二重基準とは、著者の言葉を借りれば、「ある状況で、自分の他者に対する要求を正当化するために、ある基準をもってくる。しかし、別の状況で同じ基準を適用すると自分に不利な結論が正当化されてしまう場合、今度は別の基準を援用して、自分に有利な結論をみちびこうとする」こと。一言でいえば、「基準のご都合主義的な使い分け」である。

さて著者は、「強盗の脅迫と、法は、どこが違うのか」という法哲学の基本的な問いについて、「主権者命令説」を紹介する。それによれば、強盗が「金を出せ。出さないと撃つぞ」というのと、国家が「税金を払え。払わないと刑務所にぶちこむぞ」というのは、どこも違わない。違うとすれば、国家というのは、その領域内最大・最強の暴力団であり、山口組やオウム真理教より強い、それだけの違いにすぎない。

だがこの説は間違っているとして、著者は以下のように論じる。第一に、法と強盗の脅迫の区別は「正義要求」の有無にある。強盗の脅迫は、単に金を出せと要求しているだけで、それが正義に合致していることを承認しろなどと要求したりしない。しかし、法は、悪法ですら、みずからが正義にかなっているということの承認を、服従する人たちに求めている。

第二に、法が正義適合性の承認を人々に求める以上は、服従する人たちが、その法の正義適合性を争う権利が、最低限保障されていなければならない。不利益な処分に対する不服申し立ての機会の保障、裁判を受ける権利の保障、政権交代による法改正を可能にする民主政、違憲審査制、市民的不服従や良心的拒否に対する人道的処遇などである。「最後まで全部やれば、いちばん手厚く保護しているんだけど、そこまでいかなくても、不利益処分を受ける者に対して、最低限、不服申し立ての機会を提供する」ことが必要だと著者はいう。

けれども、これらの議論はおかしい。第一に、みずからが正義にかなっているという主張は国家の専売特許であるかのように著者はいうが、そんなことはない。ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは、強欲な金貸しの老婆を殺せば借金に苦しむ人々が救われるし、その金を奪えば貧しい自分の将来も開けるという考えによって、殺人を正当化した。

フランス革命やロシア革命で多数の富裕層・中間層が殺されたのは、ラスコーリニコフと同様の正義による。現代の先進国政府は、裕福であることを理由にあからさまな殺人こそやらないものの、同じように、金持ちから金を取り上げて正しい目的に役立てるのは当然という思想に基づき、課税によって富裕層・中間層から財産を収奪している。自分は正義であると主張する点において、ラスコーリニコフと何も変わらない。

第二に、国家が法は正義と主張する以上、それが本当かどうかを争う権利を国民に「最低限」保障しなければならないと著者はいう。そして、裁判を受ける権利や違憲審査制、良心的拒否に対する人道的処遇まではいかなくても、不服申し立ての機会さえあれば、それが「最低限」の保障になるという。

しかし、この「最低限」の線引きはまったく恣意的である。なぜ、不服申し立ての機会だけで十分なのか。いうまでもなく、不服申し立ては認められるとは限らない。

オウム真理教が多くの市民を「ポア」と称して殺害した際、殺す前に不服申し立ての機会さえ与えていればよかったとは、著者はいわないはずである。

そうだとすればなぜ、国家の場合に限って、不服申し立ての機会を与えるだけで、個人の財産のみならず、生命までも自由にすることが許されるのか(著者は、国が戦力を保有する場合には徴兵制でなければならないと主張している。ただし、なぜかこの場合だけは良心的兵役拒否を認めよという。良心的課税拒否は認めなくても許されるのに)。

まとめよう。著者は、「民間」の犯罪者が個人の財産・生命を奪うことは許されないとする一方で、国家には許されると主張する。しかし自分の正義を主張する点で、「民間」の犯罪者と国家に違いはない。だから国家だけを特別扱いするのは二重基準である。また、個人の財産・生命の侵害に際し、「民間」の犯罪者には認められないような甘いハードルをクリアするだけで、国家は免罪される。これも二重基準である。「基準のご都合主義的な使い分け」に他ならない。

著者がここまで躍起になって国家を擁護するのは、たとえ悪法であっても国家が法を強制しなければ、「アナーキー状態になる」という心配からである。正しくいえば無秩序状態のことだろう。だがハイエクが述べるように、そもそも法とは国家の設計からではなく、民間の慣習から生まれ、発展したものである。違反者に対する制裁も民間で行われ、機能していた。国家による法の独占こそ、むしろ社会に無秩序をもたらしている。

本書の根幹をなす主張は、正義の実現のために国家の役割を肯定し、国家を擁護することである。ところがその主張は、著者自身がリベラリズムと正義に反すると非難する二重基準によって成立している。つまり本書そのものが壮大なダブルスタンダードであり、リベラリズムの根本的な矛盾をさらけ出しているのだ。

愛国心を強制してはならないなど評価すべき発言はあるものの、主張の大筋が論理的に破綻した本を高く評価することはできない。

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タイトル変更

ブログのタイトルを「リバタリアン通信」から「自由主義通信」に変更しました。

リバタリアンという言葉を知らない人にはとっつきにくいと思い、ひとまずこうしてみます。

2015-11-14

ランド・ポール『国家を喰らう官僚たち』


議会に権力を取り戻せ?


著者は今回の米大統領選に出馬中の若手上院議員(共和党所属)である。徹底した自由主義者として知られるロン・ポール元下院議員の息子でもある。本書は、米国での政府による個人の権利侵害を詳細に暴き、批判したところが評価できるが、解決の処方箋にやや問題がある。

著者は規制官庁によるさまざまな権利侵害を告発する。そこで述べられた多くの事実はたしかに、許しがたいものである。

たとえばアイダホ州のある夫婦は、家を建てようとした土地が保護対象の湿地に当たると環境保護庁(EPA)から一方的に断定され、家の建築を停止しすでに完成していた部分をすべて撤去したうえに、湿地の環境と適合する樹木と灌木を植えるよう命令された。多額の費用をかけてこれらの作業をした後も、夫婦は自分の土地を使っていいかどうかEPAが決定を下すまで何年も待たされる。もし命令に従わず、拒否した場合は、一日ごとに罰金が科されてその総額が資産価値を上回ってしまうという。

著者は「官僚の形式主義に抵触した罪で投獄されるような国は、誇るべきアメリカではない」と憤り、官僚の責任を糾弾する。もちろん、規制を直接運用する官僚の責任は大きい。だがともすれば官僚批判は、「政治家に任せれば大丈夫」という誤った考えにつながりやすい。案の定、本書はその誤りに陥ってしまっている。

著者は政治家の責任に言及し、次のように書く。「本書はその意味で、議会の権力放棄の物語である。議会は憲法による正当な権力を、暴走する規制官庁の官僚機構に譲り渡し、権力の乱用を許してしまっているからだ」。つまり、政治家、とくに議会の落ち度は権力を放棄したことにあり、官僚から権力を取り戻せば問題は解決するというわけである。

しかし権力を議会の手に取り戻したとしても、問題は解決しない。なぜなら第一に、政治的動機で動く議会は、官僚と同じく、経済合理性に基づいた判断ができないからである。著者は「規制というものは合理的で経済的妥当性がなければならない」というが、そのような規制は議会にも不可能である。

第二に、暴走する官僚から権力を取り戻した議会自身が、暴走しないという保証はどこにもないからである。権力の持ち主を変えるだけでは、問題の本質は変わらない。権力そのものを弱めなければならない。著者が小さな政府を目指すことは評価できるが、「官僚は悪玉、議会は善玉」という単純な構図を強調すれば、その目標は遠のきかねない。議会は政府の一部だからである。

邦訳は、こうした原著の短所に輪をかけてしまっている。原著のタイトルは『政府のいじめ(Government Bullies)』なのに、邦訳はわざわざ「官僚」という言葉を使っている。また、原著では各部の最終章がいずれも「どうすれば問題を解決できるか(How Can We Solve the Problem?)」と題されているが、邦訳では「官僚機構の暴走を止めるには」。これでは日本の読者はますます、「悪いのは官僚」「政治家に任せれば大丈夫」という誤った考えを抱いてしまうだろう。

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2015-11-07

山岸俊男『「日本人」という、うそ』



「正しいいじめ」はある


いじめに関する議論があらためて盛んになっている。10月27日には文部科学省が、岩手県で中学2年の男子生徒がいじめを苦に自殺したとみられる問題を受け各都道府県の教育委員会が2014年度のいじめについて再調査した結果、当初の集計より約3万件増えたと発表。11月1日には、名古屋市で中学1年の男子生徒がいじめを受けたと書かれた遺書を残し自殺した。

メディアでみられる論調の多くは、いじめはとにかく悪い、なくさなければならないという内容である。しかし、それは正しいだろうか。社会心理学者の著者は、いじめをする心には「マイナスの側面だけでなく、プラスの側面もある」と異を唱える。

著者はまず、不良のグループが暴力で脅して金を持ってこさせるようなケースは、恐喝・暴行というれっきとした犯罪だとして、いじめなどという曖昧な言葉で呼ぶことに反対する。一方、特定のクラスメートを仲間はずれにしたり無視したりする、「しかと」にあたるケースは、被害者の心を傷つけるものではあっても、犯罪とはいえないと述べる。

そのうえで、「しかと」のような「排除」は、恐喝や暴力と違い、「上からの権力に頼らないで、自分たちで自発的に集団や社会を維持していくために欠かすことができない行動原理」とみなしうると指摘する。

著者はこう説明する。大人の集団で、周囲に迷惑をかけても平気な人物がいたら、警察に代表される公権力に頼るか、自分たちで困った人物を排除するように努力するか、どちらかの方法しかない。だがすべてのトラブルの解決を警察に頼り切ることには大きな問題がある。日常の小さな紛争にまで公権力が介入するようになっては、行動の自由もない警察国家・監視国家が生まれる危険性があるし、そのような警察国家を維持するには大変なコストを必要とする。

だから権力に頼ることなく、自分たちで社会の秩序を維持するのが一番いい解決法である。そのためには、暴力によらない排除、つまりいじめによるしかない。

子供の集団でも同じである。もちろん、子供である以上、理不尽ないじめ、度を超したいじめが起こる余地はつねにある。しかしだからといって、上からの監視や教育によっていじめをなくそうとするべきではない。それは教室内をミニ警察国家にし、「自分たちで自発的に社会秩序を作っていくという、人間にとって一番重要な心の働きを取り去ってしまう」からである。

以上の分析を踏まえ、著者は学校教育に対し次のように提言する。まず子供たちに、自発的な秩序を作るための「正しいいじめ」と、恣意的・理不尽な理由による「正しくないいじめ」の区別をつけさせる。そしてもし、「正しくないいじめ」が行なわれているのであれば、それは止めるべきであるし、場合によってはそのようないじめをしている仲間には制裁を加えるべきだということも、教える。「今の日本の学校では、こうしたことがきちんと行なわれていないために……いじめ行動がエスカレートしてしまっている」のである。

2008年に刊行された単行本を改題・文庫化したものだが、偶然にもきわめてタイムリーな再登場となった。いじめ問題を感情的な議論に流されず考えるうえで必読の一冊である。

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