2016年12月9日金曜日

司馬遼太郎『大坂侍』


武士の偽善と愚かしさ

武士のなりわいは人殺しだが、歴史小説ではたいてい英雄になる。本書の著者による『国盗り物語』『関ヶ原』などがそうである。しかしここに収められた初期諸短編は、大坂商人らとの対比で、武士の偽善や愚かしさを突き放して描く。

剣客と談合屋の二足のわらじを履く佐平次は、仇討とは武士の商売だと言い放つ。仇を討てば士官できるといった利益が動機だからだ。商人の与七も言う。「武士が仇を討てば儲かるが、町人の仇討は、ただの人殺し」(「難波村の仇討」)

泥棒の佐渡八は農民出身の新選組局長、近藤勇に向かい、武士をまねて人殺しをすることなどやめ、泥棒になれと説く。近藤が「武士が泥棒になれるか」と憤ると、「こいつ、人殺しのほうが、一格上と思うてくさる」(「盗賊と間者」)。

川同心の鳥居又七は、武士は取引をする商人ではなく、「喧嘩をするもの」だと自分に言い聞かせる。だが上野戦争で官軍に惨敗し、逃げながら、悪夢から醒めたように思う。「武士なんざ、所詮は逃げる商売かも知れねえ」(「大坂侍」)

大和出身の中間、団平にいわせれば、忠義とは「三河から東の田舎者が江戸へ持ちこんだ祭文」にすぎない。上方には別の道徳がある。それは「男女のまこと」だ(「和州長者」)。建前に縛られた忠義などより、はるかに人間的といえる。

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