2016年8月31日水曜日

望月衣塑子『武器輸出と日本企業』

 
官民癒着経済の脅威

解禁された武器輸出に政府が前のめりになっている。しかし民間企業には困惑する声もある。兵器産業は必ずしも有望な市場といえず、コストやリスクで懸念もあるからだ。無理に進めれば、しわ寄せは国民に及ぶと著者は警鐘を鳴らす。

ミサイル部品関連の下請け企業の社員は「本音で言えばやりたくないですよ。儲からないからです」と話す。「受注は少量で品種は多岐にわたり、それでいて値段も厳しい」。第三国の従業員を使うとコンプライアンス違反に問われる。

採算面以外にも、企業が武器輸出に慎重になる理由がある。その一つは、武器を売ることでテロの標的になるリスク。下請け企業の男性は「こういうもの(武器)を造っているというのが、オープンにされるのは困るよ」と打ち明ける。

防衛省は企業の不安や不満を把握し、それを払拭する「経済支援策」を練る。たとえば特殊法人や官民ファンドを通じた低利融資。しかし特殊法人は官僚の新たな天下り先になりかねず、乱立する官民ファンドは無責任体質が指摘される。

西川純子独協大名誉教授は取材に答え、「武器市場には、民間ほどの市場や成長は見込めません。…アメリカ型の軍産複合体は…経済的な側面においても日本にとってデメリットがあるのでは」と警告する。政府の介入を排する自由な資本主義からほど遠い、官民癒着経済の典型がここにある。

2016年8月30日火曜日

〔翻訳〕君は資本主義者だ

*Brittany Hunter, Millennials Love Free Markets, But Don't Understand Them(「ミレニアル世代は自由な市場を愛するが、理解していない」)より抜粋。

最近の調査によれば、米国のミレニアル世代は社会主義の政府(socialist government)と資本主義の経済を同時に好む。なぜこんなことが可能なのか。答えは簡単。彼らはこれらの言葉の意味を本当には理解していないからだ。特に資本主義について。

熱狂的な社会主義者(enthusiastic socialist)は、資本主義の不正についてアイフォンでツイートする。これこそミレニアル世代が自由な市場を愛する良い見本だ。…彼らは待つのが嫌いだ。自称社会主義者が社会主義国で暮らしたら、長くは続くまい。

現在のハイテク世界(technological world)が実現したのは、自由市場が社会主義に勝利したからだ。しかしミレニアル世代は歴史を知らず、自由な市場が繁栄する社会に生きることがどれだけ幸運か理解していない。

問題はミレニアル世代に社会主義者が多すぎることではない。自分は資本主義者(capitalists)だと理解していない者が多すぎる。それが問題なのだ。

もしミレニアル世代が本当に社会主義の理想に身を捧げたいのなら、アイフォン、アマゾン、ウーバー、クラフトビール、ヒップスター風のひげアクセサリー(hipster beard accessories)、その他日常生活のほとんどすべてを諦めなければならないだろう。

2016年8月29日月曜日

青木雄二『ゼニのカラクリがわかるマルクス経済学』


女性の味方マルクス?

マンガ『ナニワ金融道』の魅力は、人間の欲深さや卑しさ、そして気高さを見据えて描くところにある。しかし同じ著者によるこの本は、残念ながらまったく違う。事実から目を背け、ひたすらマルクスや社会主義を崇め奉るばかりである。

著者は、労働者は資本家に搾取されているというマルクスの主張を紹介し、「いうとくけど、この剰余価値の理論は、だれも否定できない」と断言する。ベーム=バヴェルクをはじめ多数の経済学者による批判はまったく無視してである。

旧ソ連崩壊の原因について著者は、中央の共産党の力が強大になりすぎたなどと指摘しつつ、「社会主義は、まだまだこれから発展していくのや」と言い切る。権力に経済を委ねつつ、権力の肥大を防ぐという矛盾の解決案は何も示さない。

最も失望するのは、マルクスを「女性や子どもの味方やった」「理想的な『愛』のあり方も考え、自ら実行していた」などと持ち上げた箇所である。妻子あるマルクスが家政婦ヘレーネ・デームート(レンヒェン)を愛人にし身ごもらせた一件には、触れもしない。

子供は生まれたが、マルクスは自分の責任を認めなかった。世間の評判を恐れ、友人エンゲルスに認知してもらった。息子ヘンリー・フレデリック・デームート(フレディ)は労働者の家に里子に出され、母親には台所でしか会えなかった(ポール・ジョンソン『インテレクチュアルズ』)。これが「女性や子どもの味方」だろうか。

政治的イデオロギーは左右を問わず、すぐれた芸術家の目さえも曇らせる。本書はその事実を無残なまでにさらけ出す。

2016年8月28日日曜日

〔翻訳〕投機を強いる不換紙幣

*Daniel Fernández Méndez, 45 Years Without Gold(「金のない45年間」)より抜粋。

金本位制なら、貯蓄する際に三つの選択肢がある。第一に、経済も通貨も安定していると考える場合、(株式を通して)事業(project)に投資し収益を得られる。収益を期待して資産を固定するわけだ。ただし悪い投資先だと資産を失うリスクはある。

第二に、経済は不安定だが通貨は安定していると考える場合、資産を銀行口座(bank account)に置いておくことができる。資産が固定されず、リスクにさらさずに済む。

第三に、経済も通貨も不安定だと考える場合、資産を金(きん)として保有し、流動性を確保できる。これは経済・金融の混乱(turmoil)から資産の価値を守る助けになる。

不換紙幣になった1971年以降、第三の選択肢が消えた。経済が不況に入り、金融当局(monetary authorities)が債務の過剰なマネタイズなど無責任な行動を取ると考えても、選べる道は二つしかない。投資して資産を失うか、減価する現預金を保有するかだ。

通貨を金に交換できない現在、インフレから身を守りたければ、損を覚悟で流動性のない実物資産(資本財や不動産)を購入するか、拙劣な金融政策のせいで価値を失う通貨を保有するしかない。…事実上、誰もが投機家(speculator)になるのだ。

2016年8月27日土曜日

ケインズ『雇用・利子および貨幣の一般理論』(まんがで読破)


経済学の退歩

主人公ケインズは、自由放任主義を唱える古典派経済学を批判し、「大不況に打ち勝つ新しい理論を作る!」と大見得を切る。しかしケインズが提案する公共事業と金融緩和は、新しいどころか、大昔から権力者が好んだ悪政そのものだ。

古代ローマは国家の経済介入で滅びた。アッピア街道、コロセウム、公衆浴場などの遺跡は、人気取りを狙った公共工事の名残だ。増税が難しいと、皇帝は金貨・銀貨の質を落とし、差益(シニョリッジ)を懐に入れた。インフレ政策である。

古くから繰り返された政府の経済介入の誤りを明らかにしたのが、アダム・スミスらの古典派経済学である。ケインズは自説を「画期的」と自慢するが、本当に画期的なのは古典派経済学のほうで、ケインズは野蛮な先祖返りにすぎない。経済学の退歩である。

自由放任では失業者を救えないとケインズは憤る。だがケインズの時代、失業者が急増したのは、福祉国家にかじを切った英政府が過剰な失業保険を給付するなど労働市場への介入を強めたためだ。自由放任が問題ではなく、自由放任でないから問題だったのだ。

ケインズは政府が主体的に経済をコントロールせよと述べつつ、「全体主義は大キライ」と言う。しかしナチス支配下のドイツで出版された『一般理論』ドイツ語版の序文では、自説は「全体主義国の条件にずっと適合しやすい」と書いた。

マンガ版の絵はスタイリッシュで美しい。ケインズは傲慢なのに愛嬌があり、妻のリディアは聡明でチャーミングだ。夫婦愛に満ちたラストシーンもいい。しかし残念ながら、主要国に財政危機をもたらしたことをはじめ、『一般理論』が現在に至るまで経済・社会に及ぼした害悪を打ち消すことはできない。

2016年8月26日金曜日

〔翻訳〕現金廃止のたくらみ

*Joseph T. Salerno, The Blessing of Cash(「現金の恵み」)より抜粋。

欧州の中央銀行がマイナス金利の拡大をちらつかせるので、民間金融機関(private financial institutions)は利払い負担を避けるため中銀口座にある預金を現金に換え、ノンバンク部門に保管しようとしている。

もし預金を現金に換える動きが銀行以外の国民に広がれば、(預金のごく一部にあたる現金しか店内に置かない)部分準備銀行制度(fractional-reserve banking system)はたちまち崩壊する。体制派の著名経済学者が今、「現金との戦争」の音頭を取る理由はここにある。

ハーバード大教授で元IFMエコノミストのケネス・ロゴフ(Kenneth Rogoff)がつい先日、『現金の呪い』というショッキングな題名の本を出版したのは偶然ではない。…ロゴフは高額紙幣だけでなく、あらゆる現金の廃止を呼びかけているという。

ロゴフは現金には利点もあると認めつつ、市中にある1兆4000億ドルの現金の大部分は税逃れのほか、人身売買(human trafficking)、テロなどの違法行為に利用されていると述べる。キャッシュレス経済は金融政策の効果を高めるとも主張する。

生産的な労働者、貯蓄者、企業家の誰にとっても、現金はありがたい。ロゴフのような国家主義者やその指南を受けた中央銀行が広める狂った理論や詐欺の手口(swindling schemes)から、苦労して稼いだお金を守らなければならないからだ。

2016年8月25日木曜日

スミス『国富論』(まんがで読破)



「経済学の父」の混乱

読者は当惑するに違いない。近代経済学の父といわれるアダム・スミスの主著だから、経済学のエッセンスがすっきりわかるだろうと期待したのに、話にまとまりがないからだ。でも仕方ない。『国富論』とはそういう混乱した本だからだ。

近代経済学の考え方はスミスの独創ではなく、先行する学者たちによって研究され、スミスはそれを『国富論』にまとめた。そのエッセンスを一言でいえば、交換と分業である。このマンガ版も冒頭と中盤で、そのメリットに触れている。

しかしマンガに描かれた魚と野菜の交換だけでは、人間がなぜこれほど豊かになったかはわからないだろう。現在の豊かさをもたらしたのは、産業革命以降に発達した、資本家が道具や機械を、労働者が労働を互いに提供し合う分業である。

一昔前のマルクスかぶれのスミス解説本を参照したのか、資本家と労働者の対立が強調され、両者の協力関係がわかりにくい。マルクスに受け継がれた誤った学説である「労働価値説」に関するやけに詳しい解説も、読者を惑わせるだろう。

スミスは分業のメリットを説きながら、分業が進むと人間は知性や情感、品性が損なわれるなどと根拠に乏しいことを言う。これもマルクスの疎外論と同じだ。本書は『国富論』の誤った部分まで忠実に伝えており、その点では評価できる。

2016年8月24日水曜日

〔翻訳〕独禁法の恥部

 

*Dominick Armentano, Antitrust: The Case for Repeal(『独禁法廃止論』)より抜粋。

企業間の取り決め(private agreements)によって市場の生産量が制限され、市場価格を押し上げたか。パソコン産業を検証すると、自由な市場で取り交わした合意の結果、生産量が急増し、小売価格が急低下したのは明らかである。これで話はおしまいのはずだ。

もしマイクロソフトがウィンドウズの使用許諾を一部の選ばれた企業だけに制限していたら、不当な取引制限(restraint of trade)で訴えられただろう。知的財産権に法外な対価を要求していたら、独占力の行使で訴えられただろう。

皮肉にも、米政府がマイクロソフトを訴えるに際し大いに頼りにしたのは、熾烈な競争(vigorous competition)を示す明白な証拠だった。内部メモと電子メールである。それによると、同社は明らかに、競合相手を打ち負かし、ブラウザー戦争に勝つつもりだった。

コンピューター産業を政府が仕切ろうという試みは、どうしようもなく浅はかだ。技術の枠組みと消費者の好み(consumer preferences)の変化が速すぎる。…独禁法はその意図とは正反対の結果をもたらす。成功を罰し、効率的な競争を妨げ、経済成長を阻害する。

独禁法の恥部(dirty little secret)は、成功した企業を妨害し、それより有能でない競合企業を保護するために使われてきたという事実である。これ以上に反道徳的・不合理で、廃止に値する公共政策はめったにないだろう。

2016年8月23日火曜日

マルクス&エンゲルス『続・資本論』(まんがで読破)



ダイヤの価値は労力のおかげ?

マルクス経済学で経済を理解することはできない。商品の価値とは何か、正しく説明できないからだ。マルクスとエンゲルスからわけのわからない解説を聞かされて理解できなくても、落ち込まなくていい。悪いのは彼らなのだから。

『資本論』によれば、商品の価値は二つある。エンゲルスは冬山で遭難し飢えた人にパンとダイヤモンドを見せ、どちらが欲しいかと尋ねる。もちろん答えはパンだ。このように人の価値観や状況で決まる価値は「使用価値」だと言う。

一方でエンゲルスは、ダイヤモンド1個の価値はフランスパン1万個に等しく、それはダイヤ1個の生産にかかる労働者の人数や時間がパンよりはるかに多いからだと言う。このように注がれた労力で決まる価値は「交換価値」だと言う。

これらの説明はおかしい。ダイヤの交換価値はパンよりはるかに高いとエンゲルスは言うが、もし飢えた遭難者がたまたまポケットにダイヤを持っていたら、きっとダイヤを手放し、パンと交換するだろう。価値はつねに主観で決まるのだ。

ダイヤには探鉱・採掘・加工などの労力が注がれるから価値が高いと言うけれども、最も重要な、炭素からダイヤが生まれる過程で人間の労力はかからない。価値に関する『資本論』の混乱した考えを信じる経済学者は、今では誰もいない。

2016年8月22日月曜日

〔翻訳〕独禁法を廃止せよ



*Dominick Armentano, Antitrust: The Case for Repeal(『独禁法廃止論』)より抜粋。

1998年のマイクロソフト社に対する反トラスト法(独占禁止法)訴訟(antitrust suit)によって、独禁法政策の誤りが明らかになり、同法を廃止しなければならない理由がわかる。

市場シェアによって独占を判断する理論(market-share theory of monopoly)はこんがらがっており、しまいには誤解を招きかねない。何が独占かは、ある製品の市場をどう定義するかに大きく左右される。

独禁法の真の要請は、被告企業がいわゆる独占的慣行(monopolistic practices)に関与した事実を示すことにある。重要な問題は、当該企業が市場シェアを獲得した方法、市場から競合相手を排除したかどうか、競争過程を不正に制限しなかったか、である。

競争で報われるのは、最初に革新を成し遂げ、ビジネスの仕組みを統合し、競争相手より早く業容を広げた企業である。そのような企業を最大の標的にするのは、独禁法の大義名分(alleged intent)と矛盾し、真の狙いが競争企業の保護だと明らかにする。

市場シェアとは結局、すぐれた革新(superior innovations)で消費者に便益を与えた企業に対し、消費者が報いた結果そのものである。市場のトップ企業に対する独禁法の攻撃とは、明らかに有能な企業と消費者が示した好みに対する攻撃にほかならない。

2016年8月21日日曜日

マルクス『資本論』(まんがで読破)



労働者は奴隷か

マルクスによれば、労働者は鉄鎖につながれた奴隷である。しかしそれは正しくない。労働者と奴隷は違う。労働者にはやめる自由があり、奴隷にはないからだ。両者は同じだと無理に言い張ろうとすれば、いろいろおかしなことになる。

チーズ工場で働く労働者が、作業帽や手袋はしているのに、誰もマスクをしていない。一人が咳をし、監督役から「汚ねえ菌が入るじゃねえか」と殴られ、口に雑巾を突っ込まれる。労働者は奴隷だとわかりやすく強調するこの場面のために、マスクを描かなかったとしか思えない。

虐待に憤る労働者カールが監督役に「俺たちは奴隷じゃない」と言っただけで、殴る蹴るの暴行が始まる。この間、他の労働者は作業の手を止めて見守る。こんな不効率が許されるのは、昔のソ連かどこかの社会主義国の工場だけだろう。

労働者カールは街頭で演説し、「俺たちは奴隷じゃない」と訴える。だが演説を聴く労働者たちの誰も、工場よりもきつくて貧しい農村の生活から逃れるため工場を選んだとは口にしない。誰も「工場をやめて農村に帰ろう」とは言わない。

労働者カールは、町で体を売る女性は奴隷だと言う。自由意思であえて売春を選んだ女性まで奴隷扱いすれば、「従軍慰安婦」などやめる自由のない真の性奴隷との区別があいまいになり、「従軍慰安婦」は売春婦だといった不当な主張を助長しかねない。

2016年8月20日土曜日

〔翻訳〕兵士という奴隷


*Murray Rothbard, Never a Dull Moment: A Libertarian Look at the Sixties(『リバタリアンが見た60年代』)より抜粋。

奴隷制の重要な実例は、軍隊(armed forces)である。志願制の軍隊でさえ、大規模な奴隷制を実践している。

たしかに志願制軍隊(volunteer army)の場合、兵役に就く人々の自由な選択によって新兵を募る。しかし兵役に就いた後、何が起こるだろうか。

ある人が軍に五年間入隊するとしよう。二年たったところで厳しい軍隊生活(military life)にうんざりし、除隊してもっと良い仕事に就こうと決めたとしよう。それは可能だろうか。もちろん無理だ。

兵士以外のあらゆる職業では、人は辞めたいときに辞め、他の仕事に就くか、仕事そのものを辞めることができる。…辞める自由がなければ、人は奴隷(slave)である。たとえ最初はその仕事をまったく自発的に選んだとしてもである。

仕事を辞める権利がなければ、人は自由でない。どの職業でもこの権利は否定されない。ただ一つの例外は、軍隊である。そこでは辞めると「脱走」(“desertion”)と呼ばれ、投獄され、銃殺されることさえあるのだ。

2016年8月19日金曜日

アリエリー『予想どおりに不合理』



どこが不合理なの?

最近流行の行動経済学は、人間には普通の経済学が仮定するような完璧な理性はなく、無料というだけで商品に飛びつくなど、しばしば不合理な判断をすると主張する。それは正しくない。人間の満足度は金額だけでは決まらないからだ。

実験で高級チョコの値段を15セント、大衆向けチョコを1セントに設定すると、お客の73%が高級チョコ、27%が大衆チョコを買った。次にそれぞれ1セント値下げして高級チョコを14セント、大衆チョコを無料にしたところ、69%が無料を選んだという。

どちらのチョコも1セントずつ安くなっただけなのに、お客の行動に大きな変化が起きるのは「奇妙」だと著者アリエリーは驚いてみせる。それは的外れだ。近代経済学の知見によれば、商品の価値は人の主観で決まる。金額に比例するとは限らない。

著者自身、人間が無料に強い魅力を感じるのは「失うことを本質的に恐れるからではないか」と推測する。もしそうなら、無料の商品を争って求める人々の行動に不合理なところは何もない。不合理だ不合理だと大げさに連呼するのは不適切である。

著者は、人間は不合理だから自由な市場では幸福を最大にできないと決めつけ、政府がもっと大きな役割を果たすよう期待する。しかし政府を構成するのは人間である。もし人間が不合理なら、なぜ政府に合理的な判断ができるのだろうか。

もっとも、これはもともと心理学者であるアリエリーだけを責めるわけにはいかない。本職の経済学者の多くも、まるで政府は全能だと言わんばかりに、安易に政府の経済介入を求めるからだ。これこそ不合理きわまる判断と言わざるをえない。

2016年8月18日木曜日

〔翻訳〕政府介入は経済に有害

*David Gordon, The Fallacy of the 'Third Way'(「『第三の道』の誤り」)より抜粋。

政府が何かを作ったからといって、政府の介入しない市場(unhindered market)で同等かそれ以上のことができないとは言えない。

米国で産業が最も発展したのは、保護関税(protective tariffs)が高い時代だった。これは、自由な市場に保護を組み合わさなければならないことを意味しないだろうか。しかし経済学者の大半はそう考えない。経済学の理論は自由貿易の利点を示している。

もし国が高い関税の下で繁栄したとしたら、関税がなければ経済はもっと大きく発展していただろうと考えるのが理にかなう。ある物理学者が述べたように、理論で裏づけられるまで、観察結果(observational results)に過度の確信を抱かないのが賢明だ。

資本主義とは大衆のために大量生産する制度である。民間企業の繁栄は、消費者の欲求(wishes of consumers)にどれだけ応えたかで決まる。それができない企業は姿を消し、経営資源は他の企業に移る。対照的に、公営事業を撲滅する仕組みはない。政府が税金でいつまでもテコ入れできるからだ。

共和党員のいったい何人が、政府が市場に介入する混合経済(mixed economy)を一掃したいと望むだろうか。多くの共和党員は、左派ほどではないにしても、巨額の政府事業に賛成票を投じている。つまり共和党員も混合経済を支持しているのだ。

2016年8月17日水曜日

平塚武二・太田大八『馬ぬすびと』



権力者という盗賊

アウグスティヌス『神の国』の挿話で、アレクサンダー大王に捕らわれ、掠奪を責められた海賊が「同じことを俺は小さな船でやり、お前は大きな船でやるだけの話」と反論する。ロングセラー絵本の本書でも、同様の真実が描かれる。

源平の時代、陸奥の国。貧しい百姓の末っ子に生まれた九郎次は、何よりも馬を愛した。南部の宿で馬子として働きながら考える。「馬であろうと、牛であろうと、人間に使われて苦しむために、この世にうまれてくるわけがない」(p.21)

宿は侍のためにある。宿の馬を使うのは侍だけだ。「見たこともきいたこともないさむらいたちが、おれたちのしらぬどこかでいくさをして、勝った負けたで天下をとる」(p.24)。考えてみればみるほど、不思議なことだと九郎次は思う。

やがて九郎次は理解する。「平家であろうと、源氏であろうと、どっちも百姓から年貢をとるのだ」(同)。百姓が課役にへたばって倒れても、馬を貸してやれという侍は一人もない。馬を戦の道具としか考えず、人殺しの一本道に駆り立てる。

鎌倉の源頼朝が捕えた野生馬に、九郎次の最も愛する「九郎」がいた。馬盗人となっていた九郎次は九郎を救おうとしてつかまり、言い残す。自分と頼朝大将のどちらが本当の盗人か――(p.60)。この問いに、私たちは正しく答えられるだろうか。

雄渾な文章を綴った作話の平塚武二はすでに1971年に他界し、作画の太田大八も今月97歳で死去した。初版から半世紀近く読み継がれてきた本書が、これからも多くの子供や大人に親しまれてほしい。

2016年8月16日火曜日

〔翻訳〕徴兵制の反道徳性



*Murray Rothbard, Never a Dull Moment: A Libertarian Look at the Sixties(『リバタリアンが見た60年代』)より抜粋。

徴兵制を支持する人々は「社会を外国の敵から守らなければならない」と主張する。しかし「社会」とは、自分以外の人々全員(every person except you)のことである。

社会が人々のことだとすれば、どんな権利があってA、B、C、Dという4人が集まり、彼ら自身を守るためにEという人物を奴隷にして戦わせるのか。これはどう考えても、おぞましい道徳律(monstrous moral doctrine)である。

もしA、B、Cという人々が外部からの侵略者(outside invader)の脅威を本当に感じるのなら、自分たちの財布から金を出し、必要な軍事防衛を賄えばよい。そして自分たちで戦うか、彼らのために進んで戦ってくれる誰かを雇うかすればよい。

外敵を恐れる愛国者(fearful patriots)は自分自身で、あるいは人を雇って、自分を守ればよい。なぜ外国の脅威などナンセンスだと考える人や、防衛なるものはかえって有害だとみなす人まで、防衛の費用を払わなければならないのか。

徴兵は非効率(inefficiency)だから問題なのではない。すこぶる反道徳的で犯罪的だから問題なのだ。若者に兵役を強い、人生の何年もの期間虐げ、本人の意志に反して殺したり殺されたりさせるのだから。

2016年8月15日月曜日

辻田真佐憲『大本営発表』



政治と報道の癒着

第二次大戦中、デタラメな大本営発表が繰り返された原因は、軍部と報道機関の一体化だった。かつて軍に批判的だったマスコミはなぜ、その言いなりになってしまったのか。きっかけは戦争報道のスクープ合戦にあったと著者は指摘する。

戦前、マスコミの代表格だった新聞の多くは、大正時代から昭和初期にかけて、大正デモクラシーや第一次世界大戦後の軍縮ムードを背景に、軍部に対して批判的な論陣を張っていた。軍部もこれを抑えるのに、たいへん悩まされていた。

ところが1930年代に満洲事変や日中戦争が勃発すると、流れが大きく変わる。「各紙は戦争報道でスクープをあげるため、軍部に協力的になったのである」。軍部はこの変化を巧みに利用し、取材の便宜を図って新聞を懐柔した。

軍部は取材の便宜というアメの一方で、新聞用紙供給制限令などのムチを用いて新聞の隷属を図った。こうして1941年12月の太平洋戦争の開戦までに「軍部とマスコミの関係は、対立から協調、そして支配・従属へと急速に変化した」

ジャーナリズムの最大の役割が権力の監視にあるとすれば、政府の情報に依存した報道は自殺行為である。著者が強調するとおり、大本営発表の史実は、今も根絶されない政治と報道の癒着がいかに大きな危険をはらむか、教えてくれる。

2016年8月14日日曜日

〔翻訳〕真の階級対立

*Matthew McCaffrey, The Class Struggle is Real(「階級闘争は現実である」)より抜粋。

階級闘争理論(theory of class conflict)を考案したのはマルクスではない。19世紀フランスの自由主義者たちである。…マルクス、エンゲルス、レーニンはそれを知っており、その影響を公に認めてもいた。マルクス版の階級論は元のものより明らかに劣っていた。

自由主義者もマルクス主義者も、社会は搾取する階級と搾取される階級(exploited and exploiting classes)で成り立つと考える点は同じである。しかし自由主義者によれば、社会はブルジョワとプロレタリアートに分かれるのではなく、生産階級と政治階級に分かれる。

自由主義の階級論によれば、階級を定めるのは労働者や企業家のような経済的役割ではなく、収入源(sources of income)である。社会には生産と交易によって富を得る者〔=生産階級〕もいれば、再分配によって得る者〔=政治階級〕もいる。

政府が富を再分配する手段はいくつかあるが、最も組織的な方法は課税(taxation)である。…課税によって、社会の分断が制度となる。一方には政府およびそれと親しい特権集団がいて、他方には生産階級がいる。

政治を通じた暴力的な搾取(violent exploitation)は、破壊的な階級闘争を生み出す。市場を通じた平和な協力は、そうならない。

2016年8月13日土曜日

佐伯啓思『経済学の犯罪』



バブルの元凶は市場原理?

世界には市場原理主義が吹き荒れ、とりわけ1990年代以降の日本ではその風潮が甚だしいと著者は憤る。経済を専門分野の一つとするはずの知識人がこのような俗説を広めるのは、困りものである。問題は市場原理主義ではないからだ。

デリバティブや証券化など金融市場のイノベーションは、リスクを低減するつもりでむしろ不確実性をもたらし、リーマン・ショックという金融危機を引き起こしたと著者は述べる。だが、それは表面的な議論にすぎない。

金融危機の根本の原因は、政府・中央銀行による過剰なマネー供給と、それがもたらしたバブル経済である。著者は投機の横行を批判するが、中央銀行がマネーを大量に供給しなければ、そもそも巨額の投機は不可能である。

著者はグリーンスパン元連邦準備理事会(FRB)議長にバブルの責任があると言及するものの、なぜかそこで思考停止し、市場原理主義批判を繰り返す。政府が通貨発行を独占し操作する体制は金融社会主義であり、少なくとも市場原理主義の名に値するほど自由な市場経済ではない。

著者はシカゴ学派の経済学を市場原理主義と非難する。だがシカゴ学派はこと金融に関する限り、通貨発行自由化を唱えたオーストリア学派と異なり、国家主義者である。著者はそれを忘れ、「シカゴ学派=市場原理」という的外れな批判を重ねる。

2016年8月12日金曜日

〔翻訳〕徴兵制の歪んだ平等



*Murray Rothbard, Never a Dull Moment: A Libertarian Look at the Sixties(『リバタリアンが見た60年代』)より抜粋。

「徴兵するなら全国民を対象にしなければならない」という主張は、ある黒人奴隷(Negro slavery)が脱走に成功したら「公平」のために連れ戻さなければならず、社会の全員が平等に奴隷にならなければならないと言うのと同じだ。

全員徴兵(“draft-everyone”)を唱える平等主義は、国民全員を強制的に等しく扱う目的に決して成功できない。なぜなら、もし国民全員を徴兵しても、戦場の最前線に送られるのは少人数だけだからだ。

最前線(front lines)に送られる以外の者は、食用動植物の育成、道具作り、補給などを受け持たなければならない。条件の平等をいくら強制しようとしても、それは物の道理に反し、必ず失敗する。

誰かが徴兵を逃れたら喝采すべきである。全員を「平等に」苦しませるのでなく、徴兵の廃止(abolition)を求めなければならない。

この世で達成できる唯一の平等とは、すなわち唯一の理にかなった平等の考えとは、自由の平等(equality in liberty)である。

2016年8月11日木曜日

内田樹『最終講義』



それは市場原理ではない

最近の政府は「民間ごっこ」が大好きだ。積み上がる財政赤字やお役所仕事に風当たりが強まり、それなら民間の真似をしてみようと形だけの「市場原理」を導入する。ところが一部の知識人はそれを本当の市場原理と勘違いし、批判する。

著者は大学教育を論じ、「数値化できない教育効果はゼロ査定する」と言い放つ「市場原理者」を非難する。彼らは「この教師たちはいったい競争的資金をいくら取ってきたのだ?」と問い詰め、東京都立大の人文系学部を潰したという。

しかしここで著者がいう「市場原理者」とは、いったい誰のことなのか。国公立大の学部を潰す権限は、民間人にはない。民間のコンサルタントなどが雇われて手伝ったにしても、最終決定をしたのは当然、文部科学省の役人のはずである。

政府がいくら民間企業のやり方を模倣しようと、本当の市場原理とは関係ない。企業の場合、短期の損得を優先して重要な部門を切り捨てれば、やがて市場競争で淘汰される。しかし役人は、目先の収支さえ改善できればそれで手柄になる。

大学が「市場のニーズ」に追随すると「日本中の学校が全部同じになる」と著者。だが画一的といわれるマクドナルドでさえ、地域でメニューが異なるし、外食産業全体ではさらに多様だ。画一性は市場原理でなく、官僚主義の特徴なのだ。

2016年8月10日水曜日

〔翻訳〕教育無償化の嘘



*Thomas DiLorenzo, The Problem with Socialism(『社会主義の問題』)より抜粋。

政府はサンタクロース(Santa Claus)ではないし、国民がタダでもらえるものはない。医療保険であれば、医師、看護師、病院、薬、X線機器、救急車、その他すべてに誰かがお金を払わなければならない。

公立学校も「無料」ではない。さまざまな税によって賄われる。サンダース上院議員のような煽動政治家(political demagogues)が時折約束する、「無料」の高等教育も同じだ。

社会主義者が嘘をつきたくないのであれば、「政府は市民に何でもタダで提供できる」と言わずに、「医療保険(やその他多くのもの)を全額税金で賄う政府独占事業(government-run monopoly)にしたい」と言うべきだ。

税は各政府事業(government programs)のコストを隠しても、なくすことはできない。各市民の払った税金のうち、どの事業にいくら使われたか正確に知ることはできない。しかし政府のやることは決してタダではない。

民間企業を政府独占事業にすれば物が大きく値上がりするのでなく安くなる(あるいはタダになる)と、誰が信じるだろうか。歴史や日常の経験(worldly experience)からわかるとおり、値段は高く、品質は悪くなる。

2016年8月9日火曜日

シェファード『遠すぎた家路』



左翼も好んだ優生思想

神奈川県相模原市の障害者施設で入所者を次々と殺傷した男が逮捕前、「障害者は安楽死させた方がよい」と語っていたと報じられ、優生思想が関心を集めた。極右の思想と思われているが、左翼も信奉していたことが本書でわかる。

20世紀前半の英国で、政策エリートたちは人口減を心配し、原則制限していた移民の受け入れを検討するようになった。ただし条件がある。人口に関する王立委員会は1949年、移民が「よい血統」でなければならないと断言した(p.451)。

注目すべきは、労働党の母体にもなった左翼系団体のフェビアン協会が1945年に表明した意見である。「健全な血統を国内にもたらすと思われる、心身ともに健全で犯罪歴のない者たちだけを入国させるよう最大限の配慮をすべきだ」(同)

同協会は続ける。「移民の優生学は、いくら強調してもしすぎることがない」(同)。著者シェファードは「ナチスのイデオロギーそっくり」と論評する。優生思想はナチスがドイツで権力を握る以前に、英国の政治家などに広がっていた。

福祉国家の父ことベヴァリッジ、経済学者ケインズ、作家ウェルズといった進歩的知識人は優生学運動の一員として、労働者の産児制限や精神障害者の自発的避妊を提唱したという(p.26)。優生思想は左右を問わず国家主義に好都合な思想なのだ。

第二次大戦後の連合国によるドイツ占領政策がきわめて官僚的だったことから、東・中央ヨーロッパから追われたドイツ人難民の多くは劣悪な生活環境を強いられ、疫病が広がり、餓死寸前となる女性や子供も少なくなかったという(p.339-346)。戦争を引き起こす国家は、戦争の最中だけでなく、終わった後も人々を苦しめるのである。

2016年8月8日月曜日

〔翻訳〕金本位制は復活可能



*James Rickards, The New Case for Gold(『新・金擁護論』)より抜粋。

金本位制(gold standard)の復活に反対する人々は、理由の一つとして「金の量が足りないので金融と商業を支えられない」と言う。しかし、その主張はばかげている。

これまで世界で採掘された金は合計約17万トンで、うち約3万5000トンを中央銀行、財務当局、政府系ファンド(sovereign wealth funds)が保有する。この量のまま金本位制に復帰しても、金の値段を適切に定めれば、世界の金融・商業を支えることができる。

金本位制に復帰する際の金価格は、物理的な金の量と通貨供給量(money supply)の単純な比率から決定できる。この計算にはいくつかの仮定が必要である。どの通貨を含めるか。通貨供給量の定義は。金と通貨の比率をどうするか、などだ。

たとえば米国、ユーロ圏(Eurozone)、中国が金本位制採用で合意し、通貨供給量はM1を使い、金の裏付けを40%とした場合、金価格は1オンスおよそ1万ドルと計算できる。M2で裏付け100%なら5万ドルとなる〔現在は約1300ドル〕。

「金本位制復帰には金が足りない」という批判(criticism)に一言で反論するなら、「安定した、デフレにならない金価格を定めさえすれば、金はつねに十分ある」となる。

2016年8月7日日曜日

佐伯啓思『さらば、資本主義』



それは資本主義ではない

今、地球上に純粋な資本主義は存在しない。とくに先進主要国の経済は、国家の干渉がさまざまな分野で広がっている。ところが半可通の知識人は、経済・社会問題の原因は資本主義にあると的外れにも論評する。本書はその好例である。

著者は「『資本』を金融市場にバラまいて成長をめざすという『資本主義』はもう限界なのです」と記す。この短い文章に誤りが二つある。第一に、「資本」がマネーを指すとすれば、それをバラまいているのは市場自身ではなく、政府・中央銀行である。

今よりも純粋な資本主義に近かった時代、政府・中央銀行のマネー濫造には金本位制が一定の歯止めをかけていた。マネーの暴走と呼ばれる現象が頻発するようになったのは、金本位制が完全に消滅したニクソン・ショック以降である。

第二に、純粋な資本主義では、誰も国全体の「成長」をめざせと号令をかけたりしない。自分の会社が儲かるかどうかに関心はあっても、国内総生産(GDP)がどうなろうと知ったことではない。そもそも昔はGDP統計などなかった。

GDP(当初は国民総生産=GNP)統計とは、戦争や公共事業が経済にプラスになるという口実にする狙いで、政府主導で開発されたものである。著者が今の世を本当に憂えるのであれば、「さらば、国家主義」と言わなければならない。

主流派経済学に対する批判に傾聴すべき部分はあるものの、大枠の議論が混乱してしまっている。

2016年8月6日土曜日

〔翻訳〕政府は文明の敵

*Jeff Deist, The Free Lunch Is Over(「ただ飯は終わった」)より抜粋。

現代を蝕む経済の神話(economic myth)とは、集団になれば個人でできないことができるという考えである。将来を犠牲に今を生きれば、豊かになれるという。…この考えは財政破綻につながるが、クリントン、サンダース、トランプはそれを口にしない。

19世紀の仏経済学者セイ(Jean-Baptiste Say)が示した市場の法則を一言でいえば、「生産は消費に先立つ」。まず生産しなければ、それを消費できない。もしそうしなければ、祖先たちが数千年前に脱した、生存すれすれの貧しい生活に逆戻りだ。

物を蓄えて不確かな将来に備える意志から、文明は始まる。社会がより多くの資本を蓄えると、生産性が高まり、寿命が延びる。すると将来への心配がまた大きくなる。これは有益なフィードバックの循環(feedback loop)である。

貨幣膨張と金融緩和で今の消費を煽る金融政策は、文化と道徳を損なう。貨幣の品質を落とす(debasing money)ことで、政治階級と銀行家は、経済を害するばかりか、政府を大きくし、戦争の可能性を高め、モラルハザード(自己規律の喪失)を引き起こす。

議会と中央銀行は共謀して国民を陥れ、未来のために何かをつくる代わりに、今のために生きさせようとしている。政治・金融階級は文明の敵(enemies of civilization)になった。財政・金融の享楽主義を私たちに売り込み、人間の歴史を逆行させようとしている。

2016年8月5日金曜日

浅羽通明『「反戦・脱原発リベラル」はなぜ敗北するのか』



リベラル以上に左翼的

それなりに興味深いリベラル批判が続くものの、最後に愕然とする。著者の提案する政策が、経済学的に無茶なリベラルそのもの、いやそれ以上の左翼的、国家主義的な内容だからだ。しかも「リアル」な提言のつもりなのだから笑えない。

著者は、リベラルが支持を獲得すべきサラリーマンにとって「急迫性のある真の問題」とは、原発や安全保障でなく、社会保障だと指摘する。不効率な国営福祉の解体・民営化なら歓迎だ。ところが著者に現状を変えるつもりはない。

それどころか、破綻に瀕する国営福祉を「世界に冠たる国民皆保険・皆年金」と称え、実現した岸信介元首相の「功績」をほめそやす。国民を戦争に動員する手段として生まれた国営福祉が、真のコストを隠した欠陥商品だと気づかない。

そのうえで著者は、岸信介の国家社会主義者のDNAを継ぐ安倍晋三首相を社会主義者として「覚醒」させ、社会保障の強化に利用せよと言う。社会主義的な再分配が生活水準を悪化させることを知らず、正面切って持ち上げるとは呆れる。

挙句の果てにゼネストの復活と累進課税の復活・強化を主張する。賃金の源泉は企業の収入だし、企業は富裕層の貯蓄を資本に使うから、どちらもサラリーマン自身の首を絞める。左翼の経済学しか知らずにリベラルの政策を批判するのは無理である。

著者は「封建主義者」を自称する。それが近代国家に対する批判的立場を意味するのであれば、本書における著者の国家主義的な提言は、その看板と完全に矛盾する。

2016年8月4日木曜日

〔翻訳〕金銭的利益は善である

*Jakub Bozydar Wisniewski, Why We Need Profits(「利益が必要な理由」)より抜粋。

金銭的な利益(Monetary profit)だけが利益ではない。心理的な利益を得るためにも、人々は多くのことをするだろう。それにもかかわらず、複雑な産業社会で持続可能な経済を築くには、金銭的な利益は欠かせない。

自由な市場経済で利益を蓄積することは、欲深さや強欲(acquisitiveness and greed)の現れどころか、実践的な知恵が複雑な生産過程に適用されたことを示す。

利益を求める企業家は取引先や顧客を道具のように扱うと言われるが、それは家族間や友人同士でも同じである。人は愛する者や仲間を、心理的な満足を得るための「道具」(“instruments”)として扱っているのだ。

成功した個人や企業が富を生み出す複雑な貨幣経済(monetary economy)では、物々交換や贈与経済の社会には存在しないような嫉妬が生まれる。嫉妬からは道徳的な非難が無尽蔵に湧き出す。

自由な社会では、儲かるものは善であり、善は儲かる。しかしこの事実を理解するには、素朴な道徳観(naïve vision of morality)を捨てなければならない。素朴な道徳観は、人間の協力関係が広がる社会にはふさわしくない。

2016年8月3日水曜日

内田樹・白井聡『属国民主主義論』



自由への憎悪

リベラル派知識人の多くは安倍政権による改憲の企てを批判する。それには賛成だ。しかし彼らが本当に憲法を守りたいのか、疑問に感じる。憲法が擁護する個人の自由や権利を本音では憎んでいるとしか思えないからだ。本書でそれを痛感する。

対談者の内田樹と白井聡は、今の社会で消費者は企業によって意図的に幼稚にさせられ、どうでもいいモノを借金してまで買いまくるよう仕向けられていると話す。それでモノがどんどん売れるなら、経営不振になる企業はないはずだ。

白井は、若者は消費社会で「愚民化」され、スマホ製造の背後にある途上国での搾取に気づかないと批判する。しかしもし若者が軽薄な消費はいけないと反省し、スマホを買わなくなれば、企業は雇用を減らし、途上国の労働者は職を失う。

一方で白井は「持たざる者への再分配」を主張する。これは「持てる者」から財産を奪うことを意味する。課税という名の合法的搾取である。白井はそれに気づかない。これでは企業に「愚民化」され「搾取」に気づかない若者を笑えない。

内田は、高齢者が週刊誌でセックス記事を読むのは市場による「老人の幼稚化」だと言い、『徒然草』を引用し、「見苦し」いと非難する。誰にも迷惑をかけない性生活を貶めるような人物に、本気で自由を守る気があるとは信じられない。

2016年8月2日火曜日

〔翻訳〕規制は規制を生む

 *Christopher Westley, The FDA’s Cigar Fascism(「米食品医薬品局の葉巻ファシズム」)より抜粋。

米食品医薬品局(FDA)は「国民の健康を守る義務」に基づき、葉巻メーカー(cigar manufacturers)に電子煙草と同じルールに従うよう求めている。ルールは事前申請と審査手数料の支払いが含まれる。煙草のブレンドを少しでも変える際には再度必要になる。

FDAの推計によると、年産25万~30万本程度の小規模な葉巻メーカーの場合、初年度に審査手数料(application fees)などで27万8000~39万7000ドル(2900万~4100万円)を払わなければならない。値上げせざるをえない。

FDAの審査コストは多額で、小規模な葉巻メーカー(small business)への影響が特に大きい。これで得をするのは大手メーカーである。実際、大手メーカーが市場支配力を強めるため、FDAのルールを支持したというのはありうる話だ。

電子煙草(e-cig)への規制で、低所得層や若者は葉巻に切り替えたかもしれないが、政府はそれを許さない。いつものことだが、ある規制が思わぬ影響をもたらすと、それを防ぐために新しい規制が導入される。

米政府による強制的な富の移転は、キューバ政府が行った富の強奪と変わらない。キューバから米国に逃げた葉巻メーカーを待っていたのは結局、同じように抑圧的な政権(repressive regime)だったというわけだ。

2016年8月1日月曜日

佐藤優『資本主義の極意』



マルクスはやっぱり役立たず

マルクス『資本論』には、資本主義の冷徹な分析と、共産主義革命の理論書という2つの側面があり、後者の部分はソ連崩壊でダメだとわかったが、前者は役に立つと著者は言う。しかし本書の解説を読む限り、とてもそうは思えない。

著者の解説では、賃金は(1)労働者の体力維持(2)将来労働者となる子供の養育(3)自己教育資金--の3要素で決まる。だが価格はコストで決まるというこの考えは、典型的な経済学的誤りである。価格はコストでなく、需要と供給で決まる。

100円ショップやユニクロ、牛丼で生きることができる日本のような先進国では、企業側はどんどん賃金を下げると、著者はまるで安い商品が悪いと言わんばかりである。かりにそうでも、物価を考慮した実質賃金が上昇すれば問題ないはずだ。

著者によれば賃上げの方法は1つしかない。強力な労働組合をつくり、ストライキ権を背景に会社と団体交渉すること。それで賃上げはできるかもしれないが、会社は雇用を抑え、失業者が増えるだろう。生産が減って社会全体が貧しくなる。

一方で著者は、労働力は機械や原料と違い、資本で作り出すことができないため、景気がよくなると必然的に労働力不足が起き、賃金が高くなると解説する。これは、賃上げの方法は団体交渉しかないという前述の主張と矛盾する。